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1周忌 2017年7月7日

永六輔さんが昨年の七夕の日に居なくなって、早いものでもう1年が経ちました。その間、色々な形で“永さんの想い出の会”が開かれたり、ラジオ、テレビでの放送がありました。そして一周忌・今年の七夕の日を中心に二つの会に永さん縁の方々、大勢の永さんファンが集まりました。

7月6日
<永六輔一周忌記念ライブ 永六輔とその一味〜この1年を語り、歌う>

7月8日
<夢であいましょう〜永六輔さんのうわさ話〜>
舞台では「永さん、聞いてますか、見てますか!」「永さんだったら、なんていうかしらね〜」の言葉が交わされて、会場全体が永さんらしい“笑い”に包まれていました。楽しそうな雰囲気がそれぞれのチラシから伝わってきます。

ポスター

ポスター2

一周忌に合わせて、孫の永拓実さんが
「大遺言 祖父・永六輔の今を生きる36の言葉」を著しました。
ゆかりの人々を訪ね歩いて集めた語録です。
拓実さんはこれからも祖父のメモや手帳にある人々を訪ねる旅をするそうです。
本



 
 

永さんのおすすめ
森明子

原宿のカフェ

永さんは東京のど真ん中で、
自由に、アクティブに暮らしていて
よくテクテク・・と街を散歩していたみたいだった。
散歩の途中で見つけるのか、
居心地のいいカフェもよくご存じだった。
原宿 ラフォーレ近くの路地を入ったところにある
小さなカフェもそのひとつ。
店内は心地よい静かな空間で、
考え事をするのにちょうどよい暗いエリアと、
落ち着いた光がただよう明るいエリアがある。
コーヒーはしっかりコーヒーの味がして
少な目の量がたまらなく、
トーストされたチーズサンドイッチはカリカリで濃厚。
直接確かめたことはないけれど、
おそらく永さんは、この店の常連さんだったと思う。
たまたまこの店で打ち合わせをしたときに見た、
永さんと店主との雰囲気がそうだった。
一人で考える時間、ひとりで手紙を書く時間
・・永さんはここで
ひとりの素晴らしい時間を過ごしていたに違いない。

島寿司

「今日は君たちにいいものを食べさせてあげる」と、
永さんから招集がかかり
いつもの「遠くへ行きたい」永さんクルーが原宿に集まった。
明治神宮前の交差点、
雑居ビルの5階の居酒屋風の店内へ案内され
何何?と思って座ったら
すぐににぎり寿司がドン、ドン、と並べられた。
八丈島の郷土料理、島寿司だった。
たぶんトビウオを漬けにして、
少し甘めの酢飯でなんとワサビではなくカラシ。
とてもおいしい。
食べやすくてにぎりというより
お稲荷さんみたいな親しみやすいお寿司だった。
我々がうまいうまい!と食べる様子を
永さんは大満足で見ていた。
永さんはあまり食べなかったように思う。
あとで知ったが、
あの日は特別に昼の時間に店を開けてもらったそうだ。
夜は有名な郷土料理店として
にぎわう豊富なメニューの中から
一つだけ「島寿司」を
伝えたい味として選んだのだと思う。
この年、2005年5月に
「遠くへ行きたい」で永さんは八丈島を旅した。

永さんは東京にいても、
全国を旅していても、
いつもまわりをよく見て、
そして「いいもの」を見つけたら、
それを「どんな風に人に伝えようか」と
考えていたんじゃないかな。
人、味、モノ、場所、景色、歌。
ぼんやりしている私の手をとって、
出会うべきものにふれさせてくれた永さん。
永さんがいなくなってしまい、
慌てて記憶の中の永さんとの時間を考えなおしている。

 


負けない心
土橋正道(チーフプロデューサー)

 永六輔さんに先ず教わったことは、テレビの撮影は人の暮らしに闖入する邪魔者の分際だと肝に銘じなさいということだ。メディアを笠に着て失礼な態度を取るようなスタッフがいると、現場から帰ってしまうという伝説があった。

 30代の初め、最初に永さんの「遠くへ行きたい」のディレクターを担当した時、旅の舞台は東京だった。週のうち5日が旅暮らしで、「ぼくにとっての故郷は、行くところではなく帰るところです」と言っていた。それならば永さんの知らない東京を見つけようと、神田明神境内の地下にある麹室を発見しておいた。江戸時代から使われてきた麹室は、戦時中は防空壕としても使われ、永さんは八方へ伸びる行き止まりの穴蔵で空襲の熱で亡くなった人もいたという話にいたく感動していた。それが永さんに認めて貰うきっかけになった。永さんを演出することはできないが、「負けない」というのがディレクターとしての矜持だった。

 永さんは、自分の旅なのに、何故旅する前に番組の企画書があるのかと責める。あらかじめ企画書を書いてプレゼンテーションをしなければならないと知っての上でのことだ。こちらが困り果てても、そうして「遠くへ行きたい」が旅する人のドキュメンタリーだと諭してくれたのだと思う。従って、こちらが用意するトピックには現地の人と必ず撮影に来ますという約束ができない。ロケが始まると、毎日が永さんとの勝負だ。どうやって永さんの気持ちを、こちらが用意したトピックに向けるかだ。それはロケ後の夕食の時間に、食べながらの世間話として仕向ける。それがはまって、スケジュールに組み込まれたときは嬉しい。しかし、一夜にしてひっくり返ることもある。

 朝食の時に、「つちはしさん、昨日一晩寝ないで考えたんだけど、やっぱり昨日話したことは止めて、これとこれをこうしたほうが面白いと思うんだ」「ええ、すごい!それ面白いじゃないですか。そうしましょう。さすが永さん!」と口では話すものの、内心は冷や汗が流れる。しかし、永さんは表現に貪欲だった。どうしたらもっと優しい入口で、視聴者に深く伝えることができるか?どうしたら、笑いを取り入れながら深刻な話ができるか?それは本当に真剣だった。だが、こちらも大変だ。携帯電話もない時代だから、ロケの合間に気付かれないよう公衆電話で連絡を取らなければならない。

 編集では、永さんがこの旅で表現したいと思った精神を、映像表現でいかに深くできるかの勝負だ。永さんを、「おっ、そう来たか」と驚かせたい。ナレーションも書いて用意しておくが、「何でぼくの気持ちを君が書けるの?」と突っ込まれる場合もある。そこで、「こういう風に言ってもらえると流れが視聴者によく伝わると思うんですけど」と、やりとりは果てしない。

そんなことを何回も続けて、やがて仲間意識になり、ついには友人のような付き合いに至る。「あいつと仕事すると面白い」「自分の世界を広げてくれる」と思い合うことだ。大きな存在には「勝とう」と思わないで、「負けない」と心に誓うことが大切だ。



永さんとの旅の初めは40年前でした。
村田 亨(GP・HP編集者)

「遠くへ行きたい」が始まった1970年、
{ディスカバージャパン}のキャンペーンが話題を呼び、
そのテレビ版として誕生した「遠くへ行きたい」、
時代はアンノン族、ひとり旅、
ジーパンの普及で旅はお仕着せのものでなく、
自分で作るものへと変化して行きました。
そしてそんな歴史とともに
「遠くへ行きたい」は旅番組として歩んできました。

今回参加したスタッフは、
永さんと一緒に旅をした世代、
永さんをラジオやテレビでしか知らない世代、
永さんを直接は知らない世代
…と、その幅の広さがまた、
永さんの放送界での長い活躍ぶりを
物語っているような気がします。

今回の番組作りのために、
過去の旅のフィルムやビデオや資料を見た、
文字通りの老若男女のスタッフに、
それぞれが感じた永さんへの讃歌、
番組への想いなど語って貰おうと思います。

まずはイントロ風に・・・
旅の仕方の全てを教えてくれた永六輔さん、
現場で見たものをどう伝えるか、
どうやって見る人を楽しませるか、
をいつも考えていたように思います。

「テレビは嫌い」と言っていた永さん、
実はテレビをとても好きだったんじゃないか・・・
旅に出る前、
旅に出てからも次から次へと
湧き出る永さんのアイディアに、
スタッフは負けまいと、
何時も現場は緊張感にあふれていました。

取材先の皆さんへの礼儀
<撮影をするのでなく、させて頂く>、
テレビカメラが日常を乱さないように、
ということをいつもスタッフに言っていました。

その上で、制作者として
永さんの旅の世界を
どうテレビ画面で見せるか、
を考えながらの番組作りの歴史。
永さんの後から色々な人が
旅人で登場するようになっても、
この想いがあったから、
こんなに長く旅の番組として
続いてきたんだと思います。

そして、そんなこんなが
上手く若い世代に繋がって行くことが、
この秋には47年目を迎える「遠くへ行きたい」の旅が、
生き生きと更に続くことになるのでは、と思う次第です。


特別番組の見どころは、こちらからどうぞ。
特別番組




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